私は趣味が登山なのだが、アメリカ・カリフォルニア州に横たわるシエラネバダ山脈で、その最深部を貫く全長約350km(211マイル)の秘境トレイル——「ジョン・ミューア・トレイル(JMT)」の単独縦走を2019年にやったことがあった。
標高3,000m〜4,000m級の峠をいくつも越え、21日間にわたって文明社会から完全に隔離される過酷な旅だった。
結果から言えば、私はこの21日間で7kg痩せた。
しかし、この旅が私に教えてくれたことの1つは、
- 「文明の街にいる限り絶対に気づけなかった、性欲という存在の真の正体」
- 「極限の空腹の中で突如として脳内に降りてきた、先人たちの命の重み」
だった。
出発後数日——「性欲」が消えてなくなったと気づいた
普段、私たちが都市部や街中で生活していると、至る所に「性的刺激のトリガー」が張り巡らされている。
スマホを開けば溢れるSNSの画像、街を歩けば目に入る広告、過剰な情報、そして不自由のない飽食の食事。私たちは意識的・無意識的を問わず、24時間「脳を刺激するノイズ」を叩き込まれ続けている。
だが、重いバックパックを背負い、人里離れた大自然の中へ足を踏み入れた数日後、私の中に「ある奇妙な変化」が起きた。
性欲が、消え去ってしまったのだ。
四六時中頭にあったムラムラとした渇望や異性への執着が、一切脳内に湧いてこない。
それまで最大で7日程度までの山岳縦走(Backpacking)は定期的にやったことがあり、この手の長期縦走は疲れて過酷なため、毎度性欲から解放される感覚はあった。しかし、道中ずっと性欲から解放され続ける感覚は実に新鮮だった。
毎日3,000キロカロリー以上を強烈に消費し、極限まで肉体を疲弊させる日々。
「人間は、これほどまでに疲れ果てる移動の中に身を置くと、性欲から完全に解放されるものなのか……」
この当時は、まだ今回ずっとやっているオナ禁を始める前だったが、これは完全に未知の体験であり、非常に新鮮で清々しい感覚だった。
なぜ性欲は消えたのか——身体は「生殖」より「生存」を選ぶ
これは決してオカルトめいた話ではないようで、身体には明確な優先順位がある。
命の危険が迫るような極度のストレスや飢餓状態に晒されると、身体は「生殖にエネルギーを回している場合ではない」と判断する。生存に直結するホルモン(コルチゾールやアドレナリンなど)が優位になり、性欲を司る回路は一時的に後回しにされるのだ。
つまり、あの静寂は「特別な悟り」でも何でもなく、ある意味身体が正常に機能していた証拠だったということになる。
逆に言えば——現代の街中の生活は、身体に「命の危険はない、食料は無限にある、生殖以外にエネルギーを使う理由がない」と延々と錯覚させ続けているとも言えるのではないだろうか。
飽食とぬるま湯の安全の中で、行き場を失ったエネルギーが、安易な性的衝動へと暴走してしまう。これこそが、現代の男たちを苦しめている「脳の誤作動」の正体なのだ。
猛烈な空腹と、脳内にフラッシュバックした「インパール作戦」
21日間の行程中、持ち込める食料の重量には限界がある。毎日決まった量のフリーズドライ食品や行動食を口にするものの、1日3,000キロカロリー以上を消費する激しい山行となるため、カロリーはどうしても足りない状態で行くことになる。
道中、私の体重はグングン落ちていった。肉体は激しく疲労していくのだが、余計な脂肪が削ぎ落とされるにつれて、身体の芯は不思議なほど軽く、研ぎ澄まされていった。鏡もろくにない山の中で、自分の身体が日に日に変わっていく感覚だけが、静かな実感として積み重なっていった。
そうして腹を減らし、重いザックを担いで黙々と山中を歩いている時だった。
ふと、昔読んだ太平洋戦争の「インパール作戦」の記憶が、鮮明なリアルさを伴って脳裏に浮かび上がってきたのだった。
インパール作戦 歴史上、最も過酷で無謀と言われた日本軍の行軍。食糧補給を絶たれ、白骨街道と呼ばれた山中を、病と飢えに苦しみながら歩き続けた兵士たちの記録である。
彼らにとって、生きて一歩でも前に進むこと以外、頭の中に残っていたものなどなかったはずだ。性欲どころか、自我と呼べるものすら、極限の中で削ぎ落とされていたのではないだろうか。
もちろん、現代のギアを揃え、安全なハイキングをしている私の旅と、実際の戦場を同列に語るなど、大げさでありおこがましいことは百も承知だ。
だが、周囲に誰もいない深い山の奥底、たった一人で「ここで怪我をして遭難したら、人里までエスケープするのに2日以上かかるし、死ぬかもしれない」という静かな緊張感を常に抱えながら歩く中で、強烈な空腹感に襲われた時。
「ああ……あの時、日本兵達は、どれほど恐ろしい絶望と飢えの中で歩いていたのだろうか」
ということが、単なる歴史の本の「文字」としてではなく、身体の感覚として、理屈抜きで胸に刺さってきたのだった。安全な旅をしているはずの自分の身体が、本物の恐怖の記憶を呼び起こしたという事実そのものが、極限状態というものが持つ、時代や状況を超えた共通の構造を物語っているように思えてならない。
極限の空腹と死の緊張感に晒された時、人間の頭の中を占めるのは「性的欲望」などでは断じてなかった。「食べ物」への感謝、そして「生きている」ということへの切実な実感だけなのだとわかった。
下山後——消えたはずの性欲は、どう戻ってきたのか
21日間を歩き抜き、山を降りた。
文明に戻り、シャワーを浴び、2日くらいは疲れを癒したが、その後、久しぶりに人混みと光にまみれた街に足を踏み入れると、あれほど静寂に包まれていたはずの脳が、再びざわめき始めるのを感じた。
食事を存分に摂り、食欲が満たされると、急速に性欲が戻って来るのがわかった。
スマホの電源を入れた瞬間に流れ込んでくる通知の洪水、街を歩けば否応なく目に飛び込んでくる看板や画面。「ああ、これがトリガーというやつか」と、山の中では忘れていた感覚がじわじわと蘇ってくるのが、自分でもはっきりとわかった。
だが、これは決して「元の木阿弥だった」という話ではない。むしろ逆だ。
あの21日間で、私は初めて「性欲とは何によって生まれ、何によって静まるのか」というメカニズムそのものを、身体感覚として理解することができたのだ。
長期のオナ禁を実践する中で、この体験は今も私の中で生きている。ムラムラの波に飲まれそうになった時、私はあの山での静寂を思い出す。
「今の自分は、身体に“生殖以外にやることがある”と錯覚させてしまっているだけではないか?」
と問い直すのだ。
結び:日常の中で「脳の誤作動」を解く方法
なぜ現代社会の男たちは、これほどまでにポルノ中毒や過剰な性欲、そして鬱や不安に苦しんでいるのか? そして飽食からの成人病などに苦しむのか?
答えは至極シンプルだ。
「命の危険がなく、過剰に食べ過ぎており、肉体を物理的に追い込んでいないから」
ということになる。
現代人は、ぬるま湯のような快適さ、過剰な食料、そしてスマホから流れる異常な量の刺激に包まれている。身体を使わずにエネルギーを余らせているからこそ、脳がバグを起こし、そのエネルギーがすべて「安易な性的衝動」へと暴走してしまうのだ。
誤解しないでほしいのは、なにも「今すぐ3週間の山奥へ行け」と言いたいわけではない。そんなことは現実的ではないし、その必要もない。特に体力や時間に制約が出てくる年代であれば、なおさらだ。
重要なのは、「日常の中で、意図的に快適さから少しだけ離れる時間を作ること」だ。21日間の山籠りなど、誰にでもできることではない。だが、これは言い換えれば「疑似的な極限状態を、日常の中にどう小さく再現するか」という話でもあるのではないだろうか。
- たまには満腹になるまで食べず、空腹の時間を楽しむ(プチ断食)
- できれば週1回、1日断食をする
- 無理のない範囲で、心地よい負荷を意図的に肉体へかける(ウォーキング、軽い筋トレなど)
- スマホを置いて、デジタルノイズから完全に離れる時間を作る
これだけでも、脳の優先順位はガラリと変わる。
過酷な環境で命を繋ぎ、戦った先人たちの歴史に思いを馳せた時、画面の向こうの安っぽいエロコンテンツに大事な生命力を差し出す生活が、いかに虚しいかがよくわかるようになる。
満たされすぎた日常から一歩抜け出し、自分の身体を追い込んでみることを勧める。欲望に支配された「麻痺した苦悩な日常」を捨て、腹を凹ませ、汗をかき、本来の男としての力強い生命力を取り戻すのだ。
あなたにとっての「文明から距離を置く時間」とは、一体何だろうか。
あなたの内なるクエストは、今この瞬間から始まっている。
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